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今回は特別に長谷川選手のターニングポイントの記事をご紹介!

※この記事は2022年1月21日に配信された記事です。

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長谷川暢

ミニバス優勝という「ターニングポイント」を経て、能代工業へ進学。秋田の大地でバスケ選手としての素地を培った、長谷川暢選手の歩んだ道を振り返ります。


「全中優勝」からの「能代工業」入学


「全中優勝」。これが長谷川暢選手のターニングポイントだ。兄と始めたミニバスにハマり、それからはバスケ漬けの日々。現在まだ25歳だが、バスケで多くのことを学び、経験を積み上げて今の自分があるという。いかに真摯にバスケと向き合って来たか、それは彼のプレーを見れば分かるだろう。

執拗にボールを追う、アグレッシブなディフェンス。一瞬の隙を見逃さず、チャンスを生み出すオフェンス。それは、例え逆境でも「頑張ることは止めない」というメンタリティーの賜物だ。これからもターニングポイントはきっとある。しかしその都度、長谷川選手はさらにたくましく成長していくに違いない。もちろん今シーズンも然り、である。

「小さい頃から負けず嫌いで、試合に出たら点数を決めたい、そんな子どもでした。そのためたくさん練習しましたし、監督さんや先生と話をするなど、積極的に取り組んでいました」というのは長谷川選手の記憶。きっとそうだったのだろう。もし、子どもの頃の長谷川選手を見ることができれば、その面影に今の彼を見出だすのは簡単なはずだ。

一生懸命取り組んだミニバスから、次なる目標は「全国中学校バスケットボール大会」(全中)へ。地元の中学に入学した後、部活以外にも自宅から少し離れた上尾市のクラブチームで練習をしていた。

「そのクラブは練習の厳しさで有名でしたが、公式戦があるわけではなく、いわゆるバスケ塾。親が協力的で、毎日送り迎えしてくれました」

それがきっかけで、中学2年生の時、上尾市立大石中学へ転校する。大石中学は2学年上のチームが全中ベスト8の好成績を残し、通っていたクラブの先輩たちも数人がプレーしていた。

「知っている人たちが全中に出場している、そんな感覚でした」と、全中は身近な目標であり、大きな目標でもある。そんな先輩たちと一緒にプレーをしたものの、自分が活躍できるという手応えを感じていたわけではないという。

「高いレベルでバスケをやらせてもらっていました。ただ、上手くなるとは思っていなくて、周りのレベルに付いていくので精一杯、大袈裟ですけどその一日を生きるのが大変、みたいな…。その日のスケジュールをこなすのに必死で、気づいたら3年生になっていたという感じです。ただ、練習はたくさんやっていたので」

長谷川少年は、ことバスケについては、この頃すでに胸に刻む信念があった。



全中優勝で広がった未来


目標としていた全中の出場を果たし、先輩を超えようと話し合っていたベスト8を飛び越えて、見事に優勝を勝ち取った。この直後から、バスケキャリアは想像以上の広がりを見せることになる。主力選手としてチームを優勝に導いた実力が認められ、高校進学の際は強豪校から声がかかった。

「幸いにも、自分が選べる立場になりました。がむしゃらにバスケを頑張ってきて良かったと思います。もし優勝していなかったら、このような立場になっていなかったですし、もしかしたら能代工業に進学することもなかったかもしれません」

その能代工業は、「能代でバスケができればいいな」と考えることがあったという憧れの的。走るバスケットスタイルが、自分に合っていると感じていた。

「実際に入学して体育館に足を踏み入れ、『やっぱり歴史があるし、凄いんだ』って実感しました。漠然と憧れていましたが、現実になった。全中優勝がなければ、地元の高校に進学していたかもしれません」

10年前にタイムスリップし、能代工業に行かなかった自分を想像してもらった。

「中学生の頃から強豪校に行きたいという気持ちはありました。たぶん地元でもバスケの強い高校に進学していただろうし、関東の強豪校を目指したかもしれません。いずれにしても、バスケは一生懸命やっていたと思います」



「能代工」からの「早稲田大」入学


能代工業では思うような結果が残せずにいたが、3年生でキャプテンを務めた。すると誰もが認めるチームの精神的な支柱となり、ウインターカップでは7年ぶりのベスト8進出を果たす。親元を離れての寮生活に不安を感じることはなく、バスケに打ち込む毎日だったが、挫折も味わっている。

「2年の秋ぐらいに、当時の佐藤(信長)監督から『もうポイントガードやめろ」って言われて。シューティングガードとしてプレータイムはありましたが、プロの第一線で活躍してきた佐藤監督からの『PGのセンスがない』という言葉は大きかったですね」

ただそれは、強いメンタルの持ち主であると見越した上での叱咤激励であり、その通りすぐに立ち直って自分のやるべきことに集中した。

「自分がやるべきことは変わりませんでした。一生懸命練習しなければ、その一心です」

ウインターカップベスト8はそう簡単な道のりではなかった。前年の同大会は1回戦負け、その後、県大会で能代工業史上において歴史的な敗戦も経験している。そんな逆境とも言える状況で、率先してみんなとミーティングを重ねることで、持ち前のキャプテンシーを磨き上げた。

バスケだけではなく、人間性も成長させることができたという能代工業を卒業し、早稲田大学へ。ここから秋田ノーザンハピネッツ入団へ、その道がつながっていった。





「体育教師」という現実路線


入学した早稲田大は、当時関東大学リーグ2部の所属。「1部、2部はあまり気にしていませんでした。もともと体育教師になりたくて、教員免許を取るために早稲田に決めました。当時は『プロ』という選択肢はなく、とりあえずバスケは続けたい、そんな気持ちでした」

実業団で働きながらプレーしたほうが安定している、そんなアドバイスも聞こえていた。体育教師は現実的な目標だが、プロは心の隅に追いやっていたに過ぎない。ところが、Bリーグが始まったことで、プロが身近な話題になる。

「Bリーグでは特別指定選手として大学生がデビューし始めました。1つ上の先輩、今は横浜ビー・コルセアーズに所属する森井健太さんが新潟アルビレックスBBでプレーすることになり、『自分も手が届くのでは?』という気持ちになりました。ウチの中山(拓哉)さんもそうですが、一緒にプレーした選手たちがプロ入りし、『自分も』と考えるようになったのです」



憧れではない、プロこそが生きる道


その後、青森ワッツでデビューを果たすが、同じ頃、秋田ノーザンハピネッツからも声が掛かり練習に参加。秋田ではB1のレベルや環境などを体感し、後の秋田入団へ。

「大学3年の時に『やっぱりB1にチャレンジしたい』と考えるようになりました。青森で貴重な経験をさせていただきましが、また秋田から声を掛けていただけるように頑張ろうと思いました。能代工業OBの長谷川(誠)さんに声を掛けていただき、水野(勇気)社長と出会うことができました。秋田は高校時代を過ごしたので」

ミニバスから始まった長谷川選手のバスケキャリアは、目標に向かってしっかり歩み続けた印象が強い。それは自分自身が高いモチベーションを保ち続けたことに加え、「両親や出会った人たちのサポートのおかげもある」と、周りへの感謝を忘れない。ただし、秋田入団がゴールではない。

特別指定選手として入団した秋田はなかなか順位を上げられず、目の前の試合に勝たなければB2降格がちらつく状況。毎試合毎試合一生懸命プレーするしかないと自分に言い聞かせ、もがきながらプレーしていた。

次のシーズン(正式入団後)はキャリアのあるポイントガードとして、細谷将司選手(現シーホース三河)、伊藤駿選手、B1制覇とファイナルMVP、日本代表の経験もあるベテランの古川孝敏選手がやって来た。

「チームの形が出来つつある中で、若手だから自分が出られない、上手な先輩が入って来て出場機会が限られるという状況でした。悔しさはありましたが、先輩たちが背中で教えてくださったというか、『こうやれば良いよ』とアドバイスをくださったんです」

自信に満ちたプレーをする細谷選手、チームのことを第一に考えてプレーする伊藤選手、そして古川選手のリーダーシップも良いお手本になった。「そんな先輩たちと一緒にプレーできたことが、今の自分に活きています」と、手応えを感じるシーズンとなった。



ターニングポイントはプラスもマイナスも


先輩PG陣の入団によってプレータイムが減り、そこはプロとしての頑張りどころ。一見マイナスにも感じる状況だが、長谷川選手はプラスに受け止め、ジャンプアップするための我慢の時期と自覚しつつ、「彼らにない自分の良さ」を追求した。

その一つは、能代工業や大石中学時代から、「自分がやらなければ」と意識しながらプレーした感覚に立ち返ること。

「それは、経験値として自分が持っていたものだと思います。ただ、プロの世界で感じたのは、『チャンスはそう多くない』ということ。自分がシュートチャンスだったら積極的に打たなければならないと思うようになりました。ディフェンスもルーズボールも同じです。たとえゲームに出られなかったとしても、頑張ることは止めないようにしようと思っています。腐らないというか、絶対に自分の番が来ると思いながら、いつも練習は一生懸命頑張れたので次につながったと思います」

昨シーズン(2020-21)はプレータイムを伸ばし、スタメン出場も増えた。その中で、「ゲームに出る度に自信が付いていく、成長していく自分を感じました。3Pシュートの確率も良く、自分の中では『つかんだ』感覚があった。このままチャンスをものにしよう、そう思えたシーズンでした」

昨シーズン、チームは過去最多の29勝を記録したものの、チャンピオンシップ(CS)進出はあと一歩のところで逃す。

「可能性があっただけにすごく悔しい。もっとみんながレベルアップする必要があると思います」という長谷川選手だが、個人的には今シーズンも好調を維持している。

「昨秋の天皇杯で『暢、PGやってみないか?』と言われました。チャレンジしなければならないと思っていたことですし、短い時間でも結果を残す、出ている時間で求められていることを遂行するという部分でアジャストでき、昨シーズンより上手くいっていると思います。これまでは、自分のアピールを意識する気持ちが勝っていたかもしれませんが、今は短い時間でも求められるプレーを表現できますし、長い時間ならその分、チームのためにという責任感を持ってコートに立っています。自覚という意味で、3シーズン目になって成長できていると思います」

毎年毎年レベルアップしてシーズンに臨んでいると、笑顔を見せる長谷川選手にとって、次なるターニングポイントは、「今シーズンは間違いなく、チャンピオンシップに出場すること。昨シーズンの経験を踏まえ、みんなのマインドが変わっていて、そこにチームとしても成長を感じています」と語る。

秋田県民のバスケ愛を知る長谷川選手は、ブースターの応援を力に変え、「あと一歩」を乗り越えていくだろう。そしてその時は、皆で喜びを爆発させたいと思う。



(了)


文・羽上田昌彦


◆選手プロフィール

ポジション PG(ポイントガード)

身長/体重 173cm/81㎏

生年月日 1996年12月21日

出身地 埼玉県


経歴

上尾市立大石中学校 → 秋田県立能代工業高等学校 → 早稲田大学※→ 秋田ノーザンハピネッツ(2018-)

※2018年12月、早稲田大学4年次に特別指定選手(プロ契約)として入団。